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東京地方裁判所 昭和63年(ワ)12482号 判決 1990年8月21日

《住所省略》

原告 甲野倉庫運輸株式会社

右代表者代表取締役 甲野太郎

《住所省略》

同 東京自動車交通共済協同組合

右代表者代表理事 鈴木元徳

《住所省略》

同 甲野一郎

右原告ら訴訟代理人弁護士 加茂隆康

《住所省略》

被告 乙山花子

右訴訟代理人弁護士 渡部喬一

同 赤羽健一

右訴訟復代理人弁護士 小林好則

主文

一  被告は、原告東京自動車交通共済協同組合に対し、金三四万八〇〇〇円及びこれに対する昭和六三年九月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らの被告に対する別紙交通事故目録記載の交通事故に基づく損害賠償債務はいずれも存在しないことを確認する。

三  原告甲野倉庫運輸株式会社及び同東京自動車交通共済協同組合のその余の各請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、原告甲野一郎と被告との間に生じたものは被告の負担とし、原告甲野倉庫運輸株式会社及び同東京自動車交通共済協同組合と被告との間に生じたものはこれを二分し、その一を被告の、その余を右原告ら両名の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告甲野倉庫運輸株式会社に対し、二九七万八三八〇円及びこれに対する昭和六三年九月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告は、原告東京自動車交通共済協同組合に対し、一四二万八一八〇円及びこれに対する昭和六三年九月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  原告らの被告に対する別紙交通事故目録記載の交通事故に基づく損害賠償債務はいずれも存在しないことを確認する。

4  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告甲野倉庫運輸株式会社(以下「原告会社」という。)の請求

(一) 本件事故の発生

別紙交通事故目録記載のとおり交通事故が発生した(以下右交通事故を「本件事故」という。)。

(二) 被告の治療の経緯

被告は、本件事故により頚椎捻挫等の傷害を負った旨訴えて、以下のとおり病院等において治療を受けた。

病院等名称 治療期間 実日数

財団法人河野臨牀医学研究所付属第三北品川病院 昭和六二年七月一〇日から同月一二日まで通院 一日

同 同年七月一三日から同年八月一二日まで入院 三一日

同 同年八月一三日から同年一二月三一日まで通院 三六日

第二滝澤接骨院 同年八月一三日から同年九月二四日まで通院 一八日

東洋治療院 同年八月一八日から同月二四日まで通院 二日

いわき堂 同年八月二六日通院 一日

東和治療院 同年八月三一日から同年九月七日まで通院 二日

はちや鍼灸治療院 同年九月二五日から同六三年一月二九日まで通院 七六日

(三) 原告会社による支払

原告会社は、本件事故当時原告車を所有し、これを自己のために運行の用に供していたため、被告から本件事故により傷害を負い、治療費、休業損害等の損害が発生したとしてその賠償を求められたので、昭和六二年八月ころ、被告の内縁の夫である丙川春夫との間で休業損害として毎月四〇万円を支払う旨約し、被告に対し、損害賠償として次のとおり合計二九七万八三八〇円を支払った。

治療費(東洋治療院、いわき堂及び東和治療院分)として 二万八五〇〇円

休業損害として 二九〇万円

諸雑費として 二万一七〇〇円

交通費として 二万八一八〇円

(四) 被告の不当利得

しかし、本件事故は、原告甲野が原告車を運転して駐車場から出る際に、被告車の左側面にわずかに接触したにすぎず、被告車の損傷も軽微なものであるうえ、被告は被告車の右側の運転席に乗車していたものであり、このような事故態様からすれば、被告は本件事故により傷害を負わなかったものである。

したがって、被告は、原告会社に損害賠償債務がないことを知りながら前項の金員を受領したものであるから、悪意の不当利得者として、民法七〇四条に基づき右利得分を原告会社に返還すべき義務がある。

(五) よって原告会社は、被告に対し、不当利得に基づき右利得に係る二九七万八三八〇円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日である昭和六三年九月二一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

2  原告東京自動車交通共済協同組合(以下「原告組合」という。)の請求

(一) 本件事故の発生

請求原因1(一)と同じ。

(二) 被告の治療の経緯

請求原因1(二)と同じ。

(三) 被告の原告組合に対する直接請求権

原告組合は、原告会社と本件事故の当時原告車について共済約款に基づき共済契約を締結していたが、右共済約款において、対人事故によって共済契約者が損害賠償責任を負担するときには、共済契約者に対する損害賠償請求権者は、原告組合に対し共済約款の範囲内において損害賠償額の支払を直接請求することができるとされている(共済約款一八条)。

(四) 原告組合による損害賠償額の支払

原告組合は、原告会社が、本件事故当時原告車を所有し、自己のために運行の用に供していたので、本件事故について右共済約款に基づき被告に対し損害賠償額の支払義務があるものと考え、被告を治療した病院等のうち、財団法人河野臨牀医学研究所付属第三北品川病院(以下「第三北品川病院」という。)、第二滝澤接骨院(以下「滝澤接骨院」という。)及びはちや鍼灸治療院(以下第三北品川病院及び滝澤接骨院と併せて「第三北品川病院等」という。)が被告から被告の原告組合に対する前項の損害賠償額の直接請求権について被告に対して有する診療報酬請求権の範囲内で代理受領権を与えられていたことから、第三北品川病院に対し九六万一二八〇円、滝澤接骨院に対し一一万八九〇〇円、はちや鍼灸治療院に対し三四万八〇〇〇円をそれぞれ支払った。

(五) 被告の不当利得

原告組合は、被告が請求原因1(四)記載のとおり本件事故により傷害を負わなかったのであるから、被告に対する損害賠償額の支払義務がなかったものであるところ、原告組合が第三北品川病院等に対し前項の支払をしたことによって、被告は同病院等に対する診療報酬債務の支払を免れたのであるから、原告組合の損失により不当に利得したものというべきであって、前記のとおり、被告は原告会社に対し損害賠償請求権を有しないことを知っていた以上、原告組合に損害賠償額の支払義務がないことをも知りながら第三北品川病院等に前項の金員を受領させ、それらに対して負担した診療報酬債務の支払を免れたものというべきであるから、悪意の不当利得者として、右利得を返還する義務があるというべきである。

(六) よって、原告組合は、被告に対し、不当利得に基づき、右利得に係る一四二万八一八〇円及びこれらに対する本訴状送達の日の翌日である昭和六三年九月二一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

3  原告ら各自の確認請求

(一) 請求原因1(一)と同じ。

(二) 本件事故の態様からすれば被告が本件事故により傷害を負うことはありえないにもかかわらず、被告は、受傷したと主張し、原告会社に対し損害賠償の支払を執拗に求めてきた。

(三) よって、原告らの被告に対する本件事故に基づく損害賠償債務は存在しないことの確認を求める。

二  請求原因に対する認否

1  原告会社の請求について

(一) 請求原因1(一)ないし(三)の事実はいずれも認める。

なお、丙川春夫が原告会社に対し、休業損害として一か月当たり四〇万円を請求した根拠は、マッサージ師としての被告の一日の収入が一万五〇〇〇円程度であるから、一月の稼働日数を二七日として概算したものである。

(二) 請求原因1(四)は否認ないし争う。

本件事故は、原告甲野の乱暴な運転により、原告車が被告車に三度にわたって接触し、右各接触によって被告車のサイドミラーやサイドガラス、フロントガラス等が壊れてしまい、修理箇所は三〇箇所にも及んだのであるから、その衝撃は激しいものであった。

2  原告組合の請求について

(一) 請求原因2(一)ないし(四)の事実はいずれも認める。

(二) 請求原因2(五)のうち、被告が原告組合の主張する金員を受領したことは認めるが、その余は否認ないし争う。

3  原告ら各自の確認請求について

(一) 請求原因3(一)の事実は認める。

(二) 請求原因3(二)の事実中、被告が本件事故により受傷したと主張していること及び原告会社に損害賠償額の支払を求めたことは認めるが、その余は争う。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因1について

1  請求原因1(一)ないし(三)の事実は当事者間に争いがない。

2  原告らは、本件事故により被告は傷害を負わなかった旨主張するので、本件事故発生の状況及び被告の本件事故による受傷の有無について判断することとする。

(一)  まず、本件事故発生の状況について検討する。

《証拠省略》を総合すると、以下の事実を認めることができ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(1) 本件駐車場は、アスファルト舗装等の施されていない砂利敷であり、地面に固定された杭とこれをつなぐロープによって駐車範囲が区画されていた。

(2) 原告会社は、前項の区画のうち本件駐車場が面していた道路に沿った縦二区画分(以下「原告会社区画」という。)について原告車等を駐車させるために借りており、本件事故の日である昭和六二年七月九日午後四時ころ、原告甲野は、約二トンの配電盤を積んで運転してきた原告車を一旦原告会社区画内に駐車しようとしたが、被告車が右区画内にまではみ出る形で隣の区画に駐車しており、さらに、被告車が隣の区画に従来から駐車していた契約車両とも異なっていることに立腹し、警笛を吹鳴するなどして被告車を他の場所に移動してもらおうとしたものの運転者が現れなかったため、やむなく歩道にはみ出す形で原告車を被告車と並べて駐車させたが、両車の間隔は三〇センチメートル位しかなかった。

(3) 原告甲野は、同日午後七時ころ再び原告車を運転するために本件駐車場に戻ってきたが、依然として被告車が駐車していたことに立腹していたところ、被告が勤務先であるはちや鍼灸治療院に出勤するため被告車のところへ来るのに出くわし、原告甲野が被告に対し被告車の駐車方法を問責し口論となった。

(4) 原告甲野及び被告は、それぞれ原告車及び被告車を出発させるために各車両に乗り込んだが、被告車の発進前に原告甲野が原告車を発車させ、駐車場から出るために右に転把したため、原告車の左側後端が被告車の左サイドミラー、左フロントピラー、左センターピラーに順次接触したが、原告甲野は、原告車が被告車のフロントピラーに接触したときに被告車の左フロントドアガラスが割れる音がしたことから、初めて原告車が被告車に接触したことに気付いた。

被告は、右接触が被告車に乗った直後であり、座席に身体を固定させていなかったこともあって、右接触の衝撃により左後ろに頭部を振られ、座席に装着されているヘッドレストによって頭部が支えられることなく後ろに反る状態となった。

(5) 本件事故後、原告甲野と被告とはそれぞれ車を降りて再び口論となり、原告甲野は接触について責任を認めず、かえって被告の駐車方法を責める態度に終始したため、被告が一一〇番通報して警察官が本件事故現場に臨場したが、駐車場内の事故である等の事情から、物損事故として処理された。

(6) 本件事故により被告車は左フロントドアガラス破損、左フロント及びセンター各ピラー損傷等の損害を受け、その修理費用として二〇万三六六〇円を要した。

以上認定した事実によれば、原告甲野は駐車場から原告車を出すに際して、被告車との間隔が約三〇センチメートルしかないにもかかわらず、被告が被告車を区画からはみ出す形で駐車していたことに立腹していたため、被告車に対して格別配慮することなく発車させたのであり、被告車は軽乗用車であるのに対し原告車は約二トンの荷物を積載した貨物車であることや被告車の損害の程度も併せ考えると、その接触による衝撃は軽度のものであったと認めることはできない。

なお、甲第四四号証の鑑定書と題する書面は、本件事故により被告車に生じた衝撃加速度は〇・三二G(Gは重力加速度)であり、これにより被告は上体が左に六センチメートル振れる程度の衝撃を受けたにとどまるとしているが、本件事故により被告が受けた衝撃の程度を推認するためには、右に認定の(2)、(4)、(6)等の事実をも考慮する必要があるところ、右書面はこれらを全く考慮していないから採用することはできず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(二)  次に、被告の受傷の有無について検討する。

《証拠省略》によれば、以下の事実を認めることができ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

(1) 被告は、本件事故直後は特に身体の不調を訴えることはなかったが、本件事故の日の翌日である昭和六二年七月一〇日、頭重感と左手のしびれが現れたことから第三北品川病院において小出雅彦医師の診察を受け、左肩、左肘及び首の痛み、左手のしびれ、臀部を打ち、腰をひねったと訴えたところ、左肩挫傷、左肘打撲、頚椎捻挫、左手知覚異常、腰臀部打撲傷及び腰部捻挫と診断され、頚椎捻挫及び左肩挫傷により向後約二週間の安静・加療を要するとの診断を受けるとともに入院を勧められたが、入院のための保証金をすぐに用意できなかったために三日後の同月一三日から同病院に入院することとなった。

(2) 被告は、第三北品川病院において入通院期間を通じて頚部・腰部痛や左手のしびれを初めとして頭痛、食欲の低下等の様々な症状を訴えていた外、他覚的所見としては昭和六二年七月一〇日に行われたスパーリング・テストにおいて、同月一四日、同年八月一九日及び同年九月四日に行われたジャクソンテストにおいてそれぞれ陽性の反応があり、入院の初日には三七・八度の発熱が認められた。同病院においては瀬山清貴医師が主治医として治療に当たるとともに、被告の入院期間中は同病院の院長が三度にわたり回診し、前記症状に対して消炎鎮痛剤、筋弛緩剤、鎮痛解熱剤等の投薬に加えて、七月一五日から実施された頚部の牽引の外にホットパック、低周波等の理学療法が行われ、徐々にリハビリテーションも行うよう指導され、同年一〇月六日には毎日リハビリに通うよう指示された。

(3) また、被告が第三北品川病院を退院した後は、前記瀬山医師が第三北品川病院におけるリハビリに併せて他の病院においてリハビリテーションを受けた方が被告にとって精神的にも落ち着くとともに丁寧な治療が受けられると判断して、同医師の紹介で昭和六二年八月一三日から滝澤接骨院においても治療を受けることとなった。

(4) 上記各治療を受けることによって、被告が訴える様々な症状は消長を繰り返しながら徐々に改善する傾向が認められるようになり、特に治療当初訴えていた頚部痛については九月以降は殆ど認められなくなったものであり、昭和六二年一二月末ころには天候の悪い日等に頭重感等を訴えるのみで他覚的所見はなく、後遺障害を残すことなく治癒するに至った。

右認定の事実及び前記(一)認定の本件事故の態様によれば、被告は本件事故により頚椎捻挫等の傷害を負ったものと認められる。

甲第四五号証の鑑定書と題する書面及び同第四七号証の受傷者乙山花子殿に関する意見書と題する書面は、それぞれ被告が本件事故により受傷する可能性はないとしているが、甲第四五号証は前記甲第四四号証の提示する結論を前提としている上に滝澤接骨院における治療開始日を昭和六二年七月一三日であるとして推論しているものであって、その推論の過程には疑問な点があって採用するに足りない。また、甲第四七号証も被告の受けた衝撃の程度については前記甲第四四号証の結論を前提とするとともに、正面衝突や側面衝突で頚椎捻挫等の症状が生じるためには衝突速度が毎時三〇キロメートルをかなり上回る必要があるとの命題を推論の根拠とするものであるが、かかる命題が当該車両の乗員の年齢、性別、身体的条件、乗車位置、身体の向き等に係わりなく妥当するとすることには科学的根拠のないことは当裁判所に職務上明らかなところであること、被告の本件事故による受傷の可能性を判断するために必要な被告の身体的条件等本件の具体的事情を考慮にいれていないこと等に照らすと、右甲号証も前記認定を左右するに足るものではなく、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

3  したがって、原告会社は、被告に対し、本件事故によって被告が被った損害を賠償する義務を負っていたものというべきである。

4(一)(1) ところで民法七〇三条にいう「法律上ノ原因ナクシテ」とは、弁済された目的物の保持力、訴求力及び強制執行力のすべてを具有する通常の債権がない場合のみではなく、右の場合であって、かつ、債権の効力のうち給付の目的物の保持力を有するがその他の効力を有しないいわゆる自然債務ないし自然債権がない場合をいうものと解すべきであり、また、金銭を給付した者が、それを受領した者に対して、同条に基づき、右給付額の返還を求めるためには、右給付が同条所定の「法律上ノ原因ナクシテ」されたものであることを主張・立証する責任を負っているものと解すべきである(昭和五八年(オ)第九三四号同五九年一二月二一日第二小法廷判決・裁判集民事一四三号五〇三頁参照)。

不法行為の被害者が加害者に対して提起する損害賠償請求訴訟において、被害者勝訴の場合に、判決によって認容される額(以下「判決認定の損害賠償額」という。)は、(ア)被害者の事故前の状態と事故後の状態とを比較し、前者より後者が悪化したとき、この差を損害として把握し、これを金銭的に評価して算定されるものであるが、(イ)この算定にあたって、①被害者の事故前の状態は、不法行為当時における被害者の社会的・経済的・肉体的・精神的状態等のあるがままを原則として承認すべきものであること、②事故後の状態は、被害者は損害を軽減させるために合理的な措置を採った後の状態として確定されるべきものであること、③人身損害の場合における合理的措置は、右損害について必要かつ適切な治療を受けるべきこと、稼働可能となったときには速やかに稼働すべきこと等の措置をいい、かかる措置を採ったときには、そのための費用は損害賠償の対象となるべきであること等の規則に準拠してされるべきものであり、(ウ)被害者に精神的損害があるときには、これに対する慰藉料額は、裁判所が当該事実関係を考慮して裁量によって定めるべきものであり、(エ)更に、過失相殺(民法七二二条二項)、損益相殺の法理を適用し、(オ)右実体法上の各規則の適用のために必要な事実関係は、弁論主義等の訴訟法の定める規則に従って確定されるものである。右のように判決認定の損害賠償額は、実体法及び手続法上の様々な規則に準拠してする裁判所の事実認定、規範的判断、裁量に基づいて算定されるものであり、加害者が被害者に対して負うことのあるべき自然債務額を考慮する余地のないことはいうまでもない。

しかしながら、不法行為により人身損害を受けたと主張する者(以下「被害の主張者」という。)もしくは被害者と右の者から右不法行為の加害者と主張されている者(以下「加害の被主張者」という。)もしくは加害者とが、合意により損害の有無又はその額を定めるにあたっては、判決認定の損害賠償額を定めるについて裁判所が準拠すべき前記実体法上及び手続法上の規則と同一の規則に準拠して判断、算定される必要はなく、どのような事実をどのように評価して損害賠償額を定めるかは、私的自治の原則により当事者の自由に委ねられているものであり、また、加害者が良心に基づいて負担する自然債務としての損害賠償義務(以下「良心的義務」という。)のあることも肯定されるべきものであるから、当事者が合意して定めた損害賠償額(以下「合意による損害賠償額」という。)と判決認定の損害賠償額とは同一当事者間における同一の不法行為に関するものであっても異なりうるのであり、合意による損害賠償額が支払われた場合において、その額が判決認定の損害賠償額を超えたとしても、当該超過額をもって直ちに「法律上ノ原因ナクシテ」支払われたものということはできない。また、右当事者間に明示的に合意が成立したとはいえないが、加害の被主張者が被害の主張者に対して、損害の生じたことを認め、その賠償として一定の金額の支払をし、被害の主張者がこれを受領した場合においても、被害の主張者が加害の被主張者を欺罔もしくは強迫するなどしてその判断を誤らせた等の事情があれば格別、右支払が加害の被主張者において任意にしたものである限り、その支払額は右合意の場合と同様な事情を考慮して決定されたものというべきであり、良心的義務の履行としてされたものもあるというべきであるから、右支払額が判決認定の損害賠償額を超えるからといって、直ちに当該超過額につき「法律上ノ原因ナクシテ」に当たることとなるということはできないものというべきである。

したがって、加害の被主張者から被害の主張者に対して、確定判決により不法行為又は損害の有無ないし損害額が確定される前の段階において、当該損害の賠償として、任意に一定の金額の支払をし、被害の主張者がこれを受領した場合に(以下この金額を「任意支払額」という。)、加害の被主張者が被害の主張者に対して任意支払額の全部又はその一部を民法七〇三条に基づき不当利得として返還を求めるためには、(ア)不法行為又は損害のなかったことを主張・立証するか、(イ)または人身損害を惹起した不法行為があると認められる場合においては、右任意支払額が判決認定の損害賠償額のほか加害者が被害者に対して負った自然債務としての良心的義務額をも上回ることを主張・立証することが必要であるというべきである。

(2) 本件において、原告会社は、本件事故により被告はなんら傷害を受けなかったことのみを前提として、被告に対し既に支払った金額相当額を不当利得であるとしてその返還を請求するものであるが、右前提が理由がないものであることは、既に認定したところに照らして明らかであるから、同原告の請求はその余の点について判断するまでもなく理由がないものというべきである。

(二)(1) のみならず、《証拠省略》によれば、被告は、本件事故当時、はちや鍼灸治療院に治療師として勤務し、一人一時間当たり二三〇〇円として賃金をえ、一か月に二二日程度働いていたこと、昭和六二年八月一二日ころ、被告の内縁の夫である丙川春夫が、原告会社の代表者である甲野太郎と本件事故に関する損害賠償について交渉し、被告には事故当時一日あたり一万五〇〇〇円の収入があり、一か月二七日間働くものとして一か月あたり四〇万円の支払を請求したところ、甲野太郎は、被告の住所が原告会社の所在地の近隣であることから、不誠実との誹りを受けないようにするために丙川からの請求額をそのまま了承したこと、被告は、昭和六二年七月二七日から同六三年三月二五日にかけて被告本人あるいは丙川を通じて本件事故に係る損害のうち休業損害として、原告会社から昭和六二年中は一月当たり四〇万円、昭和六三年に入ってからは被告の本件事故に基づく症状に改善がみられたとして一月当たり三〇万円を受領していたこと、原告会社は、被告に対し、他に慰藉料等の名目で支払ったものはないことの各事実が認められる。

(2) 右認定の事実によれば、原告会社は、丙川が請求する賠償額をそのまま受入れたが、昭和六三年一月以降については被告の身体状況に照らして支払額を減額していることからすれば、被告又は丙川が原告会社の代表者甲野太郎を欺罔もしくは強迫した等の事情があったものと認めることはできず、既に認定した本件事故に基づく被告受傷内容、治療状況、被告の本件事故時における収入等の事情に照らすと、被告が原告会社から受領した二九七万八三八〇円につき民法七〇三条にいう「法律上ノ原因」がないことの主張・立証があったものとは認めるに足りないものというべきである。

二  原告組合の請求について

1  請求原因2(一)ないし(四)の各事実はいずれも当事者間に争いがない。

2  前記一2認定のとおり、被告は本件事故により頚椎捻挫等の傷害を負ったものと認めることができるから、被告は、原告会社に対して有する本件事故による損害賠償請求権の限度において被告組合に対しても損害賠償額の支払請求権を有していたものである。

3  《証拠省略》によると、原告会社が原告組合と締結している共済契約は、原告会社がその所有の自動車の運行に起因する対人事故により、原告会社が負担すべき法律上の損害賠償責任額が自動車損害賠償責任保険による保険金等をもって不足する場合の不足額を共済するものであり、右にいう法律上の損害賠償責任額が前記訴求力及び強制執行力をも具有する通常の損害賠償請求権の額をいうことはその文言及び当事者間の合理的意思に照らして明らかであり、右事故の被害者が原告組合に対して支払を求め得る損害賠償額も右通常の損害賠償請求権の額をいうものと解すべきであり、右共済契約の第三者であって受益者に過ぎない被告は右を超える請求権を原告組合に対して取得するいわれはないものというべきである。

4  したがって、被告が原告組合に対して請求することができた治療費は、前記認定の事実関係に照らすと、第三北品川病院及び滝澤接骨院に対する治療費合計一八〇万〇一八〇円にとどまり、はちや鍼灸治療院に対する治療費三四万八〇〇〇円については、被告は原告組合に対して直接支払を求め得る請求権を有していなかったものというべきである。

5  被告が、はちや鍼灸治療院に負担した右治療費相当額につき、原告組合に対して損害賠償額の直接支払請求権を有するとして、これについて代理受領権をはちや鍼灸治療院に授与し、同治療院が右代理受領権に基づき原告組合から前記治療費三四万八〇〇〇円の支払を受け、これにより被告が同治療院に対する右治療費の支払債務を免れたことは、前示のとおり当事者間に争いがない。

そうすると、被告は、はちや鍼灸治療院に負担した右治療費三四万八〇〇〇円については、原告組合の損失によりその支払を免れて利得をしたものというべきであり、したがって民法七〇三条に基づきその返還をすべき義務があることが明らかであるから、原告組合の本訴不当利得返還請求は、三四万八〇〇〇円及びこれに対する本件訴状が被告に送達された日の翌日であることが記録上明らかな昭和六三年九月二一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるが、その余は理由がないものというべきである。

三  原告らの債務不存在確認請求について

1  請求原因3(一)の事実は当事者間に争いがない。

2  被告は、原告らに対し、本件事故に基づく損害賠償請求権を有することを主張・立証しない。

四  以上説示のとおり、被告に対する、①原告会社の不当利得返還請求は全部理由がなく、②原告組合の不当利得返還請求は三四万八〇〇〇円及びこれに対する昭和六三年九月二一日から支払済みまで年五分の割合の遅延損害金の支払を求める限度において理由があるが、その余は理由がないものというべきであり、③原告らの債務不存在確認請求はいずれも全部理由があるものというべきである。

よって、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条本文、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 柴田保幸 裁判官 原田敏章 裁判官 森木田邦裕)

<以下省略>

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